旅のあとの非日常

03/10/15

旅の非日常を引きずって

　旅から帰って、もうかれこれ１週間になる。いまだに時差が取れず、平常の生活に戻れずにいる。東ヨーロッパの時間は日本時間より６時間か７時間遅れである。帰国後の日本で、夜更かしをして寝ようか、という時間は、旅してきた世界では、まだ夕方にさしかかる頃である。眠る気にならないが、酒量を多少増やして、酔った勢いで寝てしまう。寝て２，３時間もすると目が覚めてしまう。真夜中の２時台である。仕方ない。睡眠薬を飲み（私はここ数年睡眠薬の常用者である）、本を読みながら、眠気のおとずれを待つ。なかなか睡魔はやってこない。日本酒を少々効かせて、眠気を誘う。東ヨーロッパ時間でやっと夜がやって来たころ、いつしか眠っている。

　目覚めてみると、９時か10時である。妻はとっくに朝食をすませ、叱責の目で睨んでいる。この人は、現実対応の上手な人で、旅のあとはふだん以上に家事やその他の雑事に励むことで、時差も疲れも吹き飛ばしてしまう。このごろは、庭の樹木が散らす落ち葉掃きだけでも、朝１時間はかかるという。わが家は裏も表も道路に面している。その向こう三軒両隣に落ち葉の迷惑をかけないよう気を使っている。早起きして、せめて裏か表か掃いてくれればいいのにと、文句を眠気の覚めない頭にたたき込まれる。私は本来は早起きであり、寝覚めのいいほうだ。しかしその本来の姿に、なかなか戻れないのである。

　旅は、非日常の生活への飛躍である。現実からの離脱である。旅を終わっても、その非日常の世界にとどまっていたいと、甘えているのかもしれない。東ヨーロッパという、日本のニュースなど入ってきにくい世界で17日間も遊んでいた。日本の新聞からもテレビからも隔離されていた。ときおり断片的に伝わってくる情報で、ある程度は世界と日本の動きは理解しながらも、次第にどうでもよくなってきていた。非現実の世界に遊ぶと、現実世界に距離ができてしまう。距離ができると、現実などどうでもよいという気になってくる。

　旅の間の新聞は取り置いてもらってある。帰った日に、新聞屋がどさっと届けてくれる。朝日新聞とヘラルド・トリビューンの18日分の山は、いまだに手つかずのまま、積んである。小泉内閣がどんなメンバーで収まり、それを世間がどう受け止めたか。イラクの状況はどうなったか。ブッシュさんはどんな苦境に立たされているか。新聞をさかのぼって読み、キャッチアップする気になれないでいる。衆議院は解散され、選挙となるらしい。道路公団の悪名高い藤井総裁に、やっと引導を渡すらしい。そんな動きは漠然と承知しながらも、いまだに非現実に漂っていると、どうでもいい気になってくる。

　帰ってきてから、まだまともに朝、昼、夜の定時のニュースを見ていない。時差で朝遅く始まった生活のペースは、ニュースの時間にまったく合わない。天気予報もまともに見ていない。なんで、こんなに寒暖の差があったり、晴れたかと思うと嵐のように強い雨が降るのか。天候のよってくる気象状況を理解していない。ああ今日も雨か。寒いな。だからと引っ張り出してかぶった羽毛布団を、今朝は暑いと蹴抜いている。気候の変化には敏感で、天気予報をしっかり理解して対応するのが癖だったのに、それもどうでもよくなっている。全ての現実が非現実であるかのようで、どうでもいいと受け身になっている。

　勤めがあると、こうはいかないだろう。海外旅行、あるいは出張から帰っても、翌日から否応なしに、現実生活に引きずり込まれる。何の制約もない隠居の身はいい。妻の叱責の視線さえ耐えて、しのいでいれば、いつまでも非現実の世界に遊んでおれる。

　こんな気分でいると、小泉政治も、ブッシュとイラクも、キム・ジョンイルも、選挙で民主党が伸びるかどうかも、どうでもいいという気になる。現実世界にまともに向き合っても、しょせんしたかがない、という気になる。

　そんな気分でみていると、日本の政治における小泉さんという存在そのものがひどく非現実に思えてくる。こんなありそうもない格好だけの首相が、こんなに人気を保持し、自民党総裁に再選されたことも、その首相に率いられた自民党が、それまでの利権構造と政権基盤をぼろぼろに失いながらも、選挙には勝って、これからもしばらく、実のない政治を続けるだろうことも、非現実的な現実として、どうでもよい。受けいれてもいい、という気になってくる。藤井総裁の往生際の悪さも、非現実気分にはふさわしい茶番として、楽しめる。

　世界政治もどうでもいい。政治家としての資質の欠けるブッシュが世界を動かし、イラクでおかしな戦争をやり、その失敗のつけを米兵やイラク市民の血で贖っている。こんな馬鹿げたことが現実に起きていることも、何だか夢の中のようにも思える。また一方、歴史なんてそんなものさと、逆さにした望遠鏡をのぞいているように、遠い世界の出来事のように見えてしまう。

　これではいけないと分かっている。しかししばらく、旅のもたらしくれた非現実に漂っていたい気がする。ひょっとすると痴呆の始まりなのだろうか。